2020年6月15日
1980年代に入ると、マイクロソフト社のMS-DOSをプラットフォームとするパーソナルコンピュータが世の中に出回ってきた。それまでは、電卓を超えるようなボリュームの計算は大型コンピュータを使用していた。宇部興産にはUNIVACというものがあり、その大きさはひとつの職場に相当するような部屋いっぱいを占めていた。これを動かすには、パンチカードというものが必要で、膨大なパンチカードを作る必要があった。コンピュータを動かす言語として、個人向けにBASICというものが開発され、新しもの好きの私は家庭用に購入してあれやこれやと弄り回していた。ある時、一つのプログラムを完成し、家内に「ちょっとこれを見て、すごいでしょ!!」と言って、テレビ画面の前に座らせた。早速コンピュータのプログラムをスタートさせると、画面にゆっくりと線が描かれていった。出来上がったものはミカンを輪切りにしたような模様。つまり、円の中に中心に向かって8本の線があるという簡単な形。私にとっては、自動(プログラム)でこのような形が描けることが凄いことという思いであったが、家内からは一言「それで?」と。
このBASICの後がMS-DOSで、これが時代を大きく変えた。今ではWindows10として、当たり前に使われているマイクロソフトであるが、当時の技術者にとっては魔法のような代物で、それまで難解であった計算も、苦も無く解いてくれるという有難い存在。例を一つ上げると、大きな円柱サイロ(貯蔵容量10,000トン)の底に抜出口が数ヶ所あるとする。内容物にもよるが、物体には安息角というものがあり、抜出口を開けっ放しにしてもある量の残留物がサイロ底に残存する。その量がいくらなのか(つまり、有効貯蔵量はいくらなのか)という計算は困難ではあるが、微分・積分を使って、パソコンで繰返し計算させればすぐに答えが出せる。このように手計算ではとても無理と思われるものも容易に答えにたどり着けるようになった。当初の記録メディアは8インチ磁気ディスクというペラペラの円盤状のもの。記録容量も1MB以下で、その後開発されたフロッピーディスク(記憶容量1.5MB)へと時代が進んでいった。この頃は、とにかくパソコンに慣れろとばかり、昼休みはみんなでパソコンゲームに熱中していた。巷ではインベーダゲームの最盛期であり、コンピュータゲームが出現してきた良き時代であった。
有田 信二郎