2019年7月29日
海外現場赴任の社員には、半年毎に2週間の一時帰国が認められていた。半年の現場生活が過ぎ、一時帰国の時が私にもやって来て、とても嬉しかった。国際線のあるドバイ空港まで現地から2時間。それまでお土産にと買い溜めていたものに、免税店でさらに買い足し、旅行カバンがパンパンな状態で、いざチェックイン。初めての帰国なので、一つひとつがウキウキする手続きであった。昼間のフライトであるので、来た時のオレンジ色が海上で光っている光景とは打って変わり、海上油田の構造物があちこちに点在している様子がよく見えた。これだけの油田があるので、この国は金銭的に裕福なんだなと実感した。その光景を後にして、中継地のバンコックへと飛んで行った。無事バンコックへ到着し、飛行機を降りると目に飛び込んできた景色に自然と涙が出た。当時のバンコック空港にはボーディングブリッジはなく、タラップを降りて入国手続きの建物まで歩いてゆくのが当たり前。その途中に目に飛び込んできたのが、芝生の緑や花々の多彩な色たち。砂漠や土漠の中に6か月いた私にとって、植物の多彩な色がこれほど素晴らしいものなのかと、なぜか涙が出たのだ。日本にいるときは、あって当たり前で、そのようなものに無関心(無感動)であった私だが、全く違う世界に住んでみると、このようなものに大きな感動を覚えるということを実体験した。バンコックに一泊して、翌日、待望のJALで帰国の途に就いた。機内での出来事だが、羽田空港(当時は成田空港はなかった)に近づくと入国手続きの書類をキャビンアテンダント(CA)が配って回る。私は日本人であるのでそのような書類は不要なのだが、CAさんが「この書類に必要事項を記入してください」と書類を差し出した。『私は日本人なのですが・・・』というもなかなか信用してくれず、確かパスポートを見せた覚えがある。確かに、客観的に見れば、真っ黒に日焼けし、あまり日本人らしくないラフな格好で乗っている私は、きっと別の国の人間に見えたのだろう。ちなみに、会話はすべて英語で・・・。
羽田には夕刻到着し、今は無くなっている空港前の東急ホテルに一泊して、翌日宇部に帰ってきた。 何回目かの一時帰国が終わり、いざ再赴任という際、娘の姿に胸を締め付けられたことがある。最初の赴任時、娘は3歳であった。「行ってらっしゃい!」という感じの明るい様子であったが、2度目は泣かれた。半年間の父親不在は、きっと辛かったのであろう。しかし、仕事であるので行かざるを得ない。泣かれる子を残して現地へと旅立った。2回目か3回目の一時帰国の時、いざ再赴任というときに、なぜか娘は泣かなかった。口をキリッと結び、我慢している様子が手に取るように見て取れた。この時は、私自身本当に辛かった。 娘が大きくなるまで、海外での仕事が多かったので、成長過程がスポット的で、いつの間にか大きくなった感じである。その分、娘の娘(孫娘、現在小学1年生)が身近に居り、その成長を毎日見ることで、子供の成長というものを感じている。(続く)
有田 信二郎