2019年1月4日
インドネシアでのプロジェクトと同様、この頃(1990年代中頃)は現地に長期滞在ということは無くなり、問題解決が私のミッションとなっていた。プラント建設の現場では種々のトラブルが発生するものだ。
ちょっとインドネシアでのプロジェクトに戻るが、ある時、現地から回転機械の振動(共振)問題が報告された。直ぐに原因の技術的検討を行い、駆動用大型電動機の台座がポイントであろうとの結論に至った。当該電動機は韓国のH社から調達したものであったので、直ちにTELにて「今から行くので詳細検討をしておいて欲しい」と同社に伝えて、交通手段を調べた。最短の方法は関釜フェリーだと分かり、18時発に間に合うように自宅経由で下関へ。フリーに飛び乗り、翌朝には釜山に到着。迎えに来てくれいたH社の車で先方の本社へ移動。そこで詳細検討と対応策(改造台座の製作)を指示し、昼食後ソウルへ。その日の夕方には空路で福岡空港に到着し、職場に帰着という、今思えばとんでもない行程だった。ソウルからの機内、ちょっとおもしろいと思ったのが、飛行時間がとても短いにもかかわらず食事の提供があったこと。飛び立った後、まだ安定飛行になっていないにもかかわらず、直ぐにCAさん達が立ち上がり、バタバタと動いていたのを思い出す。一旦宇部に帰ってから、今度はインドネシアの現地へ飛び。改造台座の到着を待って、現場設置と運転確認。この頃は、本当に忙しく動き回っていた。
ベトナムも同様で、現地でのトラブル解消のため出張ベースで飛んで行った。ハノイ空港に降り立ち、車で2時間くらいかけて現地入り。途中は正に昔の田園風景、手作業で水をくみ上げている人、女性は民族衣装のアオザイを着ていた。現場のあるハイフォン市内に入ると、ちょっとした町であった。ただ、フランスの統治下にあった影響か、看板等はほとんどがフランス語であり、「何の店?」とちょっと苦労した。町中には自転車が多く行きかい、賑やかだった記憶がある。
・・・続く
有田 信二郎